【回想録⑦】乳がん放射線治療の跡に刻む思いと、子供の成長の節目を見れる喜び
抗がん剤治療のあとは放射線治療
放射線治療自体は、治療中に横になり実際に放射線が出ている短い時間も含め痛みや熱さなどはありませんでした。
副作用は特に感じなく、家にいて日焼けのように赤くなり若干熱を持ったりすることもありましたが不快感はそれほどでもありませんでした。
ただ、放射線治療は主治医からの指示で設備が整う別の病院へ約5週間毎日照射を受けに通ったのですが、
その通院の毎日に慣れるまでの疲労感がキツかったです。
はじめは徒歩と交通機関を利用して通いましたが、途中から自分で運転して通うようにしたら軽快になりました。
ちなみに抗がん剤治療はかかりつけの乳腺外科クリニックで3週間に1度点滴のために通院、
そこも車だと40分ほどかかる場所にあるのですが、採血などの通院も含め全て旦那が仕事を抜けて送迎をしてくれました。
自分の治療のことだけではなく子供達の節目の春であり、何かと慌ただしい我が家でした。
その間も、せっせと日々の会社の仕事もこなしながら助けてくれた旦那は私にとってのスーパーマン(のろけ)
この人のためにも元気でいたいと心から思うのです。
放射線治療で照射を受けた場所(当時と今)
放射線治療の跡はどういう状態になるのか気になる方もいれば、
不安になり見たくない方も、不快になりそうで見たくない方もいらっしゃると思います。
私は、これが自分の体に起きたこと、家族との暮らし、それをありのまま残しておきたく、
以下のようにそのままここに記録したいと思っているので、ページを訪れてくださった方にはご了承ねがいます。
左から、
2015/5/11 初日 CT撮影そして照射位置のマーカー付け
2015/6/4 放射線治療3週間目17回の治療日(変色あり)
進級し頑張る園児、毎朝いつも通り子供達の弁当作り
右端は現在の表面。ゴツゴツしていますが、今はもう
ただの硬い素肌の胸板で皮膚も定着、問題ありません
子供の成長の節目の春
2014年から2015年の2月まで続いた抗がん剤治療が終わり、
2015年3月は長男の高校の卒業式、次男の中学の卒業式、
いずれもまだ髪の毛はこんな感じでパヤパヤだったので、
式にはウイッグをつけて参加しました。
このあと4月は長男の専門学校入学と次男の高校入学、そして三男の幼稚園の進級、
それを見届けたあとの5月から最後の大きな治療である放射線治療が始まったのでした。
(長男と)
その後、2017年に三男が小学校入学、
2018年には長男が念願の職につき半年間の訓練を受けるべく消防学校に入校、
そして次男は大学へ入学、それぞれが新しい未来に向かい進んでいきました。
でも私は相変わらずで、離れている子供達にも家にいる三男坊にも常に心配性なので口うるさい(~_~;)
いろいろ起きる葛藤も、親離れしていく子供に対し自分がぜんぜん子離れできていないのだと気づいたり。
ここに綴りながら改めて、そんなことも含め全て生きているからこそ。
子供たちの成長の節目に参加できることへの喜びも、
病気になったからこそ何倍にも感じるのだと思います。
けれど勿論、病気にかからないに越したことはありません。
特に乳がんは、一概には言えないこともありますが、予防できることが多い病気であると思っています。
生活習慣、特に食生活、またストレスを受けやすいなど心の持ちようにも関係してくるものだと、それは自分がなってみて感じています。
私自身6年これまで何もなく無事にこれたとはいえ、これからも油断は禁物。
異常は見つからずにはきましたが、常に体が痛いと骨転移では?咳が出ると肺転移では?と何度も恐怖を味わいました。
その都度、家族にも不安を与え心配をかけました。
リンパ節への転移が多かったことから全身に癌がいきわたった可能性がある、
だからこそあの大変な治療があったことを私は忘れてはいけないのです。
まだまだ彼らの節目を見ていきたいので、がんばります。
2014年にステージ3の乳がんが発覚してから、
まずは自分にとっての節目と考えていた5年は無事に過ぎ、
6年目を迎えたこの2020年も特に問題なく終えようとしています。
いま振り返ると濃くてハードな6年を歩いてきましたが、
良かった~何とかなったな~と胸をなでおろしています。
自分ひとりで歩いたのではなく、忙しくさせてくれた家族がいたから。
当たり前にいつもそこにいてくれた旦那と子供達へ、
ここで改めて「ありがとう」
そして、いつも見えない存在、大きな力にも守られていたと実感しています。
気温1度 今日は休日なので旦那と一緒にワン達の散歩
大切な人のために・・
※乳がん検診は必ず受けてほしいです
私が乳がんの診断を受けた経緯はこちらです