【回想録⑤】3週間ごと投与×6回、いよいよ抗癌剤治療がスタート
ドセタキセル(タキソテール)開始
6年前の初夏に乳がんが発覚、化学療法が始まった当時を振り返っています。
化学療法とは「殺細胞性抗癌剤(抗癌剤)」と呼ばれる薬による治療法で、
私の場合はまずドセタキセルの点滴投与からスタートでした。
「右同時性多発乳癌」というイヤ~な響きの名前の、
更には腋窩リンパ節への転移が10個中5個、
ホルモン依存症あり(ER/PgRPgRともに80%陽性)という病理結果。
そして先生がそのあと更に追加したのは放射線療法でした。
そんなフルコースの豪華メニューに気が遠くなったものの、
もう、やるしかない!!
8月7日がドセタキセル投与初日でした。
治療が始まるときには、だいぶ腹が据わっていました。
7月4日に手術をし病理検査がわかってから、
7月の末に骨シンチやPETなど多臓器への転移はないか検査を受けたり結果を待ったりしたあの期間が、
1番キツく、悪夢の中にいるような毎日でした。
多臓器への転移はなかった、
よし、あとはどん底から上に向かうだけ。
代われるものなら私が代わりたい
体に入った抗癌剤は血液の流れに乗って全身の癌細胞を攻撃、
そのとき癌細胞だけじゃなく正常な細胞も傷つけてしまうのは避けて通れません。
それが副作用となるのなら、受けて立とうじゃないか(強気)
個人差あるっていうけど副作用どんなかんじでくるのかな(弱気)
まずはいくら覚悟はしても、
やっぱり例の視覚的にきてほしくないもの、、、
でもやはり細胞分裂が活発な髪の毛を作る細胞はしっかり影響を受け、
枕にどんどん抜け毛がつくようになり、
そして洗髪するごとに両手に絡まりまとわりつき、
どんどん抜けていきました。。
「代われるものなら私が代わりたい」
そう言って電話の向こうで泣いた母。
ちなみにこれは当時、実家で心配している母親を笑わせようと
「髪の毛抜けたけど、ほら大丈夫!(笑)」と2枚つなげて送った画像。
片や無残な脱毛状態、
片や艶のあるカラーのボブヘア(づら)
けれど、安心してもらおうと思ったのに、
「おねーちゃん、おかーさん笑えないわ」と、逆に泣かれてしまいました。
*あえてここでは変顔塗りつぶします
・・・もちろん現実は母の不安どおりで。
どうにもにならない日も、
たっくさんありました。
このときは、熱も出て、朦朧としていて、
でもこれも、通り道、通り道、
イタイ姿だけどそのまま残しておこうと、
無表情のまま自撮りとかしていました。。
前向きになるのも後ろ向きになるのも、
気持ちしだい。。。
クッソ―負けたくない、けどなんでこんなに辛いの?(泣)
このまま副作用で死んじゃうのではと弱気になるくらいの、
痛みと強烈な倦怠感に襲われる日もありました。
どんどん脱毛も進み、雛鳥みたいになっていく。。。
髪の毛はもう容赦なく、抜け落ちました。
外出時にはウイッグや帽子でカバーしましたが、
家にいるときは頭皮に優しい付け心地のよい素材の帽子か、
坊主頭のままで過ごしていました。
(はじめ目のやり場に困っていた家族も慣れていきました苦笑)
いろいろ軍事品は持っていましたが、
このタイプはとても重宝し色違いで使用しました。
私はブルー×ホワイト、ブラック×ダークグレーを愛用していました。
もちろん治療後に地毛の生活が戻っても、
おしゃれに使えて◎
また、遠方に住む友人が肌触りの良いタオルを使用して
私のために帽子を手作りし送ってくれたことも忘れられません。
温かい気持ちがこもったものって、
本当に暖かいんです。。
治療が開始するまでに整えていたこと
長い抗がん剤治療が始まる前に、
体力気力ともに低下気味な状態でもあったので、
出来るだけ万全な状態にしておかなければなりませんでした。
治療を前にテンションもかなり落ちていて人に会うのも億劫な時で、
けれど治療が始まったらいろいろ身動き取れなくなるかもしれない…
今のうちにと動きました。
歯科、呼吸器内科、子宮がん検診等も兼ねて産婦人科、、、
乳がんに罹患したことを報告し、
今後のアドバイスも含め親身に対応していただきました。
これから治療中に起こる副作用とつきあっていく中で、
自分の状況を把握し応援してくれるお医者さんがいるという安心感は、
その後とても支えになりました。
実際に抗癌剤治療を経験してみて、
副作用には本当に個人差があるということを実感しました。
事前に不安で調べまくり頭がパンクしそうなほどでしたが、
並べられている全ての症状が当てはまったわけではありませんでした。
以降の【回想録】では私が経験したこのドセタキセルでの治療中、
出現した副作用に対処しながら家族と過ごした日常などを綴ります。
乳がんの発覚から治療に至るまでのことは【回想録①】~