乳がんになって目が覚めた

乳がんになって目が覚めた

これまでの治療時の記録、また、当たり前に朝が来て過ごせている感謝の日々、そこから残していきたいことなども書いていきます。

母の誕生日

昨日は実家にいる母の誕生日でした。

今日はその事にちなみ実家の母のことを綴ろうと思い、

でもその前に、私を産んでくれた母親のほうのことを少し前置きとして・・・

前置き

私が幼い頃に、両親は不仲で離婚しました。

なので今の母とは血のつながりはありません。

幼い頃の両親といえば、やはり離婚するほどなので罵り合いケンカをしている記憶しかありません。

そうして子供の取り合いで最終的に勝利?した父のもとで私は育ちました。

家は祖母や父の妹もいて、家族で商売(精肉店)を営んでいました。

当時は景気が良く商店街も活気があり、家の中も外も常に人に囲まれ賑やかだったので、

慌ただしい暮らしの中あまり寂しさを感じることはありませんでした。

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母親を追わない自分もどうか...と思ったのは、

自分が大人になり結婚し子供を産んだときで、

あまりに子供が可愛くて、

それまで産みの母親がいなくても平気できたので罪悪感に苛まれました。

ものすごく苦しんだんじゃないか・・・

そして初めて、産みの母に感謝の思いも芽生えました。

「子宝に恵まれちゃんと産むことができる丈夫な体に産んでくれてありがとう」と。

それまでは5歳で生き別れてから会ったこともなく、

風の噂で再婚してまた離婚し娘さんと2人で暮らしていると聞いていました。

正直かなりマイナスなイメージしかなく、

子供の立場としては親の離婚というのはやはり気持ちのどこかに常に影を落としていることで、

コンプレックスにさえ感じるというか、

更には産みの母が結婚生活をうまく送れない人という印象を持ってしまい複雑でしかありませんでした。

でも、産んでくれたことへの感謝、それに気づき「いつかお礼が言えたらな~」

「私は大切に育てられたので安心してほしい」と言いたいな~

しかも当時「結婚できて優しい夫と2人の宝物までいて今とても幸せですよ」ということ、

他人行儀だけど、きちんとそんなこと伝えたいな~と。

でもそう思ったときには、すでに実母は悪性リンパ腫で闘病中。

6年の闘病の末、51才という若さで亡くなりました。

はじめは余命半年と言われたところを、

娘が成人するまで死んでたまるか、ひとりにさせるわけにはいかない、と。

辛い治療に耐えながら本当にそれまでの6年頑張ったそうです。

17年前のことです。

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たったひとり残された当時大学生だった娘さんが、

私たちを産んだ亡き母のそれまでの生き方、病気との闘い方を話してくれ、

私は産みの母親をやっと自分の中であたたかい気持ちで感じることができました。

その後も何度か会いましたが、

私のしぐさ、話し方、豪快な笑い方が「お母さんに似てる」と嬉しそうに言っていました。

 

実母なりに、実母らしく、失敗し傷つけ傷つけられながらも、

大切なものを守りながら成長し生き抜いた。。

とにかく、いいお母さんだったようです。

娘さんをみたらよくわかりました。

実母のことについては、また折をみてここに書き残せるときがきたらその時にと思っています。

 

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 「おかえりモネ」

さて本題に入り、実家の母のこと。。。

今回の朝ドラ「おかえりモネ」を観ていると実家が恋しくなります。

特に主人公モネのお母さん鈴木京香を見ていると、

母と重なり、会いたくなります。

高校を出てすぐの初々しいモネ(清原果耶)と50に手が届く自分を重ねるのは、更に鬱陶しいですが(苦笑)

高校を卒業して家を出て就職したモネと自分が重なり、

家業に勤しみながら母・妻・嫁の立場で奮闘するモネのお母さんとうちの母が重なります。

母は、認知症で入退院を繰り返していた姑(私の祖母:享年96)を2019年春の最期まで面倒をみました。

なんだかんだ姑と二人三脚で来た母、

そして祖母を大好きだった私、

二人で泣いて、見送りました。

そして初盆に訪れた夏を最後に、翌年明けからコロナ蔓延、以来、実家には帰省していません。

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往来自粛

高速道路を使って片道約4時間の距離。

実家は小さな町で今は焼肉店を営んでいて、

なかなか札幌ナンバーの車では押しかけづらい・・

みんなで両親に会いに行きたいけれど、

夫は医療系の営業職で総合病院に出入りする仕事、

長男は消防士の仕事をしているし、

次男はバイトやらわりと自由にしている大学生、

念には念をで、往来自粛を守っています。

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こんな時代なのでLINEでのやりとりも出来るし、

なんならビデオ通話もできるけれど・・・

なんせ母は毎日忙しい、しばらくまともに話していない、

やっぱり会いたい!!

ゆっくり喋りたい。。時間を気にせず朝までまた喋りたい。。。

これまでも、楽しい事もうれしい事も苦しい事も悔しい事も、

まずは何でも母に話したいし聞いてもらいたい、

ずっと私にとってそんな存在、

昨日 6月17日は、そんな私の母の誕生日でした。

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母は、私が小学6年のときに父と再婚し、

私と3才下の弟のお母さんとなりました。

その後、私が中学2年の夏に小さな弟がうまれ三姉弟の母になりました。

私にとっては、まさに目に入れても痛くない、

そんな可愛くてたまらなかった弟も、もう30代半ばで2児のパパ(今も可愛い弟w)

長く独身だったすぐ下の弟も、やっとご縁があり最近トントンとパパになり・・(ハゲ散らかしてるので若干おじいちゃんに見えなくもないw)

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子持ち親付き自営業の父の再婚

母は、ハタチで15才年上の私の父のもとへ、

しかも、私たち小学生の姉弟はいるわ、お姑さん付き、家族経営の商売屋という、、、

そんな環境へ嫁いできたのでした。

もともと高校生でアルバイトに来ていて、高校卒業とともにうちに就職、父のどこが良かったのか、その2年後 永久就職という流れ💨

狭い町で好き勝手言う人たちにどんなに後ろ指さされようとも、ひたすら家族で力を合わせて淡々と日々やることをやる・・・

そうして父と母が築いたものは、今の家族の在り方に表れているのではないかと思います。

とにかく、この二人は今ナニが幸せって、

孫の存在

本当にコロナ禍で経営は大変、

でも孫がいるから頑張れるのでしょう

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私が長男を産んだとき父40代 母は34才にして初孫

長男、次いで次男、普通に里帰り出産する私と赤ちゃんの面倒を普通にみていました。

あとから母のそういう節目の年齢に自分がなるたびに、

母の底知れないパワーに改めて驚くのでした。

息子たちも絶大なる信頼を置いていて、彼らにとっても大切な存在なのが伝わります。

母の裏表ない真っ直ぐな愛情、無償の愛を受けて、

私たちはこれまでやってこれた。。

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初孫の晴れ姿を喜ぶ父と母。2018消防学校の卒業式に長男が招待し出席した時の写真

父は、妻と娘の関係に口を出すわけでもなく、ひたすらマイペース。

母は自然に母でありオバアチャンであり、

見返りを求めずに、ただ、当たり前にそこにいつも居てくれる。

もう本当にタフで心が強いな~と思います。

私が母の立場だったら絶対ムリだと断言できます。

でも母にそれを言うと「え``ーーーなんも強くないやーーおねぇちゃん(私のこと)でしょー強いのはーーワタシなんてなんもさーー」と笑いながら言います。

お互い乗り越えてきたものを、

お互いに見てきたからなのでしょうか。

でも私においては、母がいてくれたおかげ。

仕事・結婚・出産・子育て・死別・再スタート・再婚・がん闘病 

いつも私の考えや決めたことを尊重し、

祖母もそうでしたが絶対に否定せず肯定してそっと見守り、

常に私の味方でいてくれました。 

実家という安心できる場所や人がいたので私は何とかやってこれました。

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従妹の結婚式にて母と。私は抗がん剤の脱毛が終わり生えそろってきた頃のベリーショートで出席していました

母は血のつながり云々とか、クヨクヨしてる暇もなかったのもあるでしょう、

とにかく商売を展開していく父のそばで尽くしてきました。

あんな短気なクソじじいのどこがいいのかと思いますが、

恋に堕ちたのですね。

確かに父は安心できて頼れる、魅力的な人間なのかも。それは分かる気がします。

よく「意味わかんないさー、もー、腹立つーー! でもね、ああだけどお父さんは優しいんだよね、憎めないっけぇ」ってよく言ってたよね。

ちゃんと見抜いてもらえて父はラッキーだ。。

でもハタチで嫁いで常にそこに家族がわちゃわちゃいる状態、父と2人きりの甘い時間もなく、よくぞ・・と思う。。

常に動いている働き者で、家族の潤滑油であり、的確にしっかり皆を支えてくれる、

なくてはならない存在のまま今もいてくれている母です。

 

とはいっても、

嫁いできたあと父と喧嘩したり、

何があったのか裏口でしゃがんで泣いてる母の姿私は覚えているし、

いろいろ年相応に若かった母のことも覚えています。

親子としてお互いにシックリいかず心がすれ違った時期は実際にありました。

それでも少しのそれを越えたら絆は深まる一方でした。

母と私は縁があったのだと思います。

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私と母のような母娘関係や、ああいう家庭環境で幸せって、なかなか無いのかもしれない。。

なので私は恵まれたと心から思います。

母は自信なさげに常に一歩いつも引きながら、

でも家族にはそれぞれ自信を持たせるよう、認め、許し、大事にしてくれる。

思うにそれは、

 

母が父を大好きだからなのではないかと・・・

そのおかげで、

私は結婚に夢を持って大人になれました。

 

私が罹患したとき母は私が代わりたいと泣き、

そのあとは「おねぇちゃんがいなくなったらワタシ無理。無理。ワタシそうなったらもう生きていかれない。だから絶対おねぇちゃん、ダメだからね!」とぴーぴー悲しそうに怒っていました。

お母さんのためにも私は絶対に再発しないよー。

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7年前の 2014年の母の誕生日である6月17日は、

私は2件目の乳腺クリニックで今の主治医とスタートした、やっぱり乳がんだということで動き出した日でした。

そして今がある、

そんな貴重な記念日。

7年後の今は日常生活に全く支障なく、

むしろ元気に健康的に過ごせています。

母が生まれてきてくれたことも、

全て今につながっています。

 

感謝をこめて

 

改めて  お母さん、58才✨おめでとう( *´艸`)

 

あわわわ、

まさかの4000字超え・・最長だ・・・

まとまりないけど、これも私の気持ち。

残しておきたい、気持ち。

 

これからもこれまで通り、

ここには思いを自由に記録していこう。