乳がんになって目が覚めた

乳がんになって目が覚めた

これまでの治療時の記録、また、当たり前に朝が来て過ごせている感謝の日々、そこから残していきたいことなども書いていきます。

3月3日に想う / 愛犬と我が子と亡き祖母のこと

たくさんの雪が積もった3月3日の朝

昨日の豪雪には参りました。

雪かきに追われヘトヘトになったけど、

今朝は雪雲もすっかりなくなって、輝く青空と重量感タップリの積雪が美しく、

とても気持ちの良い散歩となりました。

f:id:purikoko:20210303110622j:plainちなみに今朝の気持ち良い朝の散歩は15才のプリンだけ。

12歳のココはというと、最初から全く行く気ナシ。

彼女は散歩したい時としたくない時があり、

基本、家の中からゆっくり窓の外を眺めていたい人なのです( ̄▽ ̄)

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大切な家族、プリン(♀)とココ(♀)

18年前、前の夫が闘病の末に亡くなり母子家庭になったとき、次男がしきりに犬を欲しがるようになりました。

その後、次男が5才のある日、根負けして迎え入れたのがチワワのプリンです。

そして案の定、躾からお世話全般をしなければならなくなったのは私。

家の中で犬を飼うなんて初めてで最初は苦労したものの、そのうちワンコの虜になり、

ある日ペットショップで売れ残っていたダックスをお持ち帰りしてしまったのがココです。

三男の場合は、生まれた時点でもうプリンとココが存在していました。

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10年前の「三男とココ」 現在の「三男とココ」

今となっては、家族の誰にとってもかけがえのない存在。

長男と次男も常に気にかけていて、

オカンの普段のLINEは大体スルーしたりと鈍い反応ですが プリンとココの画像を送るとすぐさま反応します。

「かわいい」「会いたい」・・などなど(-ω-)/

子供たちの成長を見届けながら、

アッというまに晩年期に突入した愛犬たちです。

 

居て当たり前だった人

ところで私自身、常にそばに誰かがいてくれて育ってこれた。。

そんな当たり前のことが何という幸せなことだったのかと気付いたとき、

その相手がもう手の届かない場所へ行ってしまったことを悔やんだりすることがありました。

親の離婚や再婚、同居していた叔母が嫁いでいったり、私の生まれ育った環境はちょっと人の出入りがある環境でしたが、

実家で18歳までずーっと一緒に過ごしたばあちゃんも、私にとってまさに居て当たり前の人でした。

 

⇑⇑ 孫娘の将来の幸せをどストレートに願ってくれていたことがわかるエピソードを、以前ここにに投稿しましたが、

雛人形の時期になるとやっぱりばあちゃんのことを思い出します。

 

50年ぶりに空で旦那さんと再会した祖母

認知症が進み、最終的には施設に入りました。

体は昔の人なので健康でしばらく元気そうにしていましたが、

そのうち年齢とともに衰えが激しくなっていき、

誰のことも分からなくなり、

最後は入退院を繰り返したのち2019年桜が満開の5月、入院先で息を引き取りました。

実家との距離が車で4時間かかるほど離れているため頻繁には会えず、

でもそのうち実家に帰省した時でも私は祖母に面会をしないで札幌に帰るということもありました。

あんなにしっかりしていたばあちゃんがばあちゃんでなくなってしまった

また次に来たときに会えばいいや。。と、そんな感じで。

目を背けたい、プラス、ボケてしまってもばあちゃんはまだまだそのままそこにいてくれるんだろうという勝手な思い込み。

コロナ禍でもないのに、いくらでも会えたのに。

 

  葬儀の帰りに高速SAにて

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祖母は大正生まれのスーパーばあちゃん

ばあちゃんが30代半ばの時、旦那さんが私の父を含む3人の子を残し病気で他界、

ばあちゃんはそれ以来、毎朝一途に旦那さんの仏壇に「お楽になってださい。どうぞ私たちをお見守りください」と手をあわせながら、

家業の商売を切り盛りし3人の子をひとりで育てました。

絵に書いたような意地悪を繰り広げる小姑を含む親戚たちに囲まれた土地で、

ひたすら子供を育てながら生き抜くことに前向きだったようです。

また、店頭に来るお客さんにはたくさんの笑顔と親切を振りまき、苦労を絶対人に見せる人ではありませんでした。

それがばあちゃんの自然なばあちゃんらしい生き方でもありました。

でもでも、ばあちゃん本当に寂しくなかった?

寂しかったしょ。。

最後あんまり会いに行かないで、ごめんね。

私は、若かりし35才の旦那さんの遺影を胸に棺で眠る96才の祖母に、

「50年ぶりにじいちゃんと会えるね」

「ばあちゃんごめんね」を胸の中でただただ繰り返すだけでした。

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同級生の言葉で気づかされた

35年前私が中学生のとき、同級生の部活の仲間達がしょっちゅう家に遊びに来ていました。

その友達の1人が、ばあちゃんが亡くなったあと私にこんな話をしてくれました。

 

「Roseのばあちゃんね、Roseのこと本当によく褒めていたんだよ。よく昔Roseの家に遊びに行ってた時ばあちゃん私によく言ってたよ、Roseは本当にいい子で、本当にどっこも悪いところが無い子なんだよって。 ニコニコして言ってた。 ただ『でもRoseは裁縫してると必ず縫い針をどっかやっちゃうの、そこだけなの、心配は』って困った顔してよく言ってたよ」

 

孫をそうやって本当にいい子なのと自慢していたばあちゃん。

普通いくらカワイイ孫でも、

私のいないところでそんな風に孫の友達に言う?(笑)

それに、そんなにいい子でもなかったよ?私・・

 

でも私はそれを聞いて、

涙がブワーっと溢れたのでした。

物心ついた時にすでに一緒に暮らしていたばあちゃんは決して怒る人じゃありませんでした。

何かを強要してもこないし、確かに私のことは常に肯定し応援してくれました。

 

そして針を失くすという不注意極まりないマヌケなエピソードまで(=゚ω゚)ノ

実は私は昔から恥ずかしいくらい裁縫が苦手で、

でも結婚しても息子たちの背番号を縫い付けたり他にもほころびを縫ったりするくらいしかやってきていないけれど、

それでさえ「あれ??針、あれ??針どこいった💦」と最後なぜか必ず慌てるのでした。

いくつになっても、そうやって慌てふためく自分が恥ずかしくて、

まあでも誰に知られることもないか、と思っていました。

 

でも、ばあちゃんは知っていた

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私をいつも見ていてくれてありがとう。

いつも当たり前にいてくれたこと、

ありがとう。

 

きっと私が今まで自分の3人の息子たちのことよ~くそばで見ながら(ウザがられながらも)全力で可愛がってきたように、

ばあちゃんも私にそんな気持ちでいたんだね。

 

じゃあ、ばあちゃん、

それってさ、

きっと、幸せ💕だったよね・・・

 

愛を与えられること、それを当たり前だと胡坐をかいてはいけなかったのかもしれない。

 

でも、そこで安心して生活してこれたことは他の何にも代え難いし、

ばあちゃん最期まで、コンプレックスだらけの私に自信をくれました。

 

これからも頑張って生きていくね~